乗車録

我が家の帰省といえば、熊谷駅で親戚一家と待ち合わせし、八木橋とかイオンとかで昼食を共にするのが定番だった。快速で40分もしない距離にもかかわらず、親は根っからの鉄道少年だった私を特急「草津」や新幹線に乗せてくれて、往路のちょっとした鉄道旅は八木橋のお子様ランチをも凌ぐ帰省の一大イベントだった。

しかし今年は違う。年の瀬だというのにゼミの打ち合わせが入り、私だけ遅れて帰省することになった。一人だけ置いて行かれるのはいささか寂しい気もするが、せっかくの機会なので王武線で久々の「乗り鉄」を楽しむことにした。

朝からお昼休憩を挟み4時間。年始に控えた発表の準備は一応の完成を見せ、打ち合わせはお開きとなった。いつもならキャンパスを突っ切って東西線に向かうところだが、今日はグランド坂を降りてバス通りに出る。鉄骨のアーチ屋根が美しい王武線の早稲田駅は、この通りの上下線に挟まれる格好で鎮座している。

面影橋から延伸する形で1930年に開業。市電・都電と接続する賑やかな複線の駅だったが、1967年に新目白通りが開通、翌年に都電が廃止されると、1面1線の小ぢんまりとした終端駅に姿を変えた。レイアウトは嵐電の北野白梅町に似ているが、片側2車線の間にホームと線路が1つずつ割り込むこちらはさらに肩身が狭く見える。

線路の行き止まりを狭い駅事務室が塞いでおり、ファサードには近年取り替えられた最新型の券売機が1台と、通学定期更新シーズンには長蛇の列ができるであろう発券窓口が1つだけ取り付けられている。王武行田までの運賃750円は王武電鉄の最高額面だが、JRだと浦和までの定期券をもってしても熊谷まで770円かかるから、私鉄の安さを実感する。

事務室に食い込まれた狭いコンコースを有効に使うためか、自動改札機は段違いで2基設置されている。改札外から見て左奥は出場専用のため、右手前の改札機にきっぷをくぐらせると、3両編成を2つつないだ1800系がお目見えする。車齢は40年以上に見え、緑の帯をまとった波打つステンレスの車体が無機質な駅舎とマッチしている。

ホームの線路部分まで覆うアーチは2両分までで、それより先は簡単な柵で車道と隔てられているのみだ。左側の道路を都バスが追い越してゆくのが間近に見え、大手私鉄の都心ターミナルとは思えない非常に簡素なつくりである。誰もいない先頭車両に乗り込み、乗務員室の真後ろに設けられた2人掛けのロングシートに腰掛ける。座りながらにして「かぶりつき」が堪能できる特等席だ。

14時59分。発車ベルが甲高く鳴る。バタンと閉まるドアの音が鈍い響きを残しながら力んでゆき、1面1線の構内からゆっくりと左に転線すると、終点・王武大門の到着時刻を告げる肉声放送が流れ出す。視界の自動車とようやく速度が合ってきたところで再び減速し、王武電鉄一の急半径を誇る高戸橋のカーブにさしかかる。併用軌道然とした区間はここまでで、左に明治通りを迎えて神田川を渡ると、もったりとした走りのまま最初の駅・学習院下に到着する。文字通り学習院大学のお膝元ではあるが、通学利用は目白駅の方がメジャーなようである。

目白通りの千登世橋をくぐり、短い駅間を保ちながら鬼子母神前、水久保と停車する。それぞれ副都心線の雑司が谷、有楽町線の東池袋と至近だが、乗車はまばらだった。春日通りを向原の踏切で跨ぐと次第に高度を上げ、大塚にすべり込む。

大塚は2面2線の相対式ホームであり、上りの2番線には大阪環状線の鶴橋のように山手線ホーム池袋方へ続く連絡改札が設けられている。このような構造になったのは1966年であり、以前は巣鴨方のロータリーにホームを構えて山手線をくぐっていた。

大塚で乗り換え客を迎え、ようやく角の座席が埋まってきた。再び高架を下りて新庚申塚、滝野川と続く区間は、はるか新潟まで続く国道17号で唯一の踏切を設けるなど、地平レベルで人家の裏側を快走するローカルな雰囲気が漂っている。

滝野川を出ると一転して地下区間に突入し、王子に到着する。京王の調布に似た地下2層構造で副都心線と合流する上、京浜東北線からの乗り換えも旺盛なため、まとまった乗車がみられる。ゆるやかなS字カーブを描くホームは視認性に欠けているため終日駅員が立ち会うなど、都心側の実質的なターミナルの風格が漂う賑やかさを見せていた。

王子15時12分発。電車は単線のシールドトンネルを飛ばしつつ、神谷橋に停車する。北本通り直下でスペースの制約が厳しく、副都心線の引上線を設けるためにこの駅まで2層構造が続く。次の志茂町で相対式ホームに戻し、まもなく王武赤羽に停車する。

王子から王武赤羽までは、かつて北本通りを併用軌道で通過する路面電車区間だった。法令上の問題から3両を超える電車の乗り入れは禁じられており、埼玉県内から荒川を越えてきた6両や9両の電車はここ王武赤羽で3両に分割され、あるものは早稲田へ、あるものは三ノ輪へ、残りは大塚や王武赤羽止まりとして処理されてきた。1992年の副都心線池袋開通に伴い併用軌道も地下化され、8両や10両といった長大編成が投入されたが、当時の3両編成の電車はこの1800系のように2本つながれて余生を送っている。

王武赤羽を発車すると、トンネルのまま荒川を渡り、埼玉県に入る。かつての新荒川大橋は名鉄の犬山橋と並ぶ鉄道道路併用橋として有名だったが、現在では道路専用へと姿を変えた。快速急行を待ち合わせる案内放送が入り王武川口に到着したところで、老兵1800系に別れを告げた。

かつての小規模な貨物ヤード跡も巻き込んで地下化しているだけあり、王武川口のホームは広く、地下駅にしては明るい。元町・中華街始発の快速急行王武行田行きは、3分の待ち合わせで15時23分の発車である。6両から10両への乗り継ぎだが、車内の混雑率はむしろ高まった印象だ。

加速するやいなや地下にとどまる引上線を横目に地平に顔を出し、十二月田を通過。「しわすだ」と読む難読駅で、上り線に設けられた通過線を利用してラッシュ時には各駅停車が準急を待避する。列車密度が高い区間であり、「開かずの踏切」として有名な2ヶ所の踏切を抜けると、鳩ヶ谷市によって立体化された高架区間に差しかかる。

アプローチ部を登りきったところで前田を通過。高架化に伴い8両編成に対応し、最寄りである川口オートの開催日には一部の準急が臨時停車できるようになった。見晴らしの良い高架を左に大きくカーブすると、2面4線の鳩ヶ谷に到着する。ホームは3階にあり、1・2階は京王線の府中のようにエキナカが充実しているという。2割ほどの降車があり、一定の拠点性を感じる。

鳩ヶ谷からはゆるい下り勾配が始まり、舌状に発達した大宮台地に接続する形で高架が途切れる。通過する新井と神根は再び川口市内。高架化が進まず開かずの踏切が散見されるうえ、ホームの拡張ができず6両編成の各駅停車しか停まれないなど制約が多い。

下大門には15時32分着。地平2面2線と至って普通の私鉄駅だが、2階のデッキを通じて武蔵野線の南大門駅と接続しており、乗客の3、4割程度が入れ替わる。乗降客数も王子、大宮に次いで3位にランクインするなど、武蔵野線沿線の宅地化に伴う躍進が著しい。

駅構内から始まるゆるやかなカーブを曲がりきると、快速急行ながら王武大門に連続停車する。左の1番線には各駅停車蓮田行きが、左前の切欠きホーム0番線には当駅で分岐する見沼線の大崎台行きが控え、乗り継ぐ客も目立つ。

王武大門から次の岩槻までは、快速急行で最多となる4駅連続通過区間である。平面交差で見沼線と兼用する車庫への引き込み線を越すと長い直線を軽やかに加速し、右手の埼玉スタジアム2002が近づいてきたところで王武野田を通過。

右にそれると電車は盛土区間に差しかかり、2面3線の笹久保を通過する。台地の趾間にあたるこの地域は、軟弱な地盤のためにいまだに水田や荒地が散見されるが、近年では王武系のマンション開発が始動し、朝ラッシュ時の始発設定などを武器に利用が増えつつある。

再び地平に戻り浮谷、真福寺と団地の目立つ区間を走行する。右手を各駅停車早稲田行きがすれ違った直後に左手から複線が近づき、大宮線と平面交差で合流する。同じ系統を離合させることで交差支障を克服する手法は、横須賀線の蛇窪や名鉄の枇杷島を彷彿とさせる。

岩槻2番線には15時41分着。巧みな対面接続が見どころの岩槻だが、10分サイクルと15分サイクルの狭間に埋もれた日中の快速急行は春日部方面との接続を取らない。次の春日部行きは49分発で、先ほど王武大門で追い抜いた蓮田行きと連絡する。

2分の停車で乗客を降ろし、全員が着席できる状態で、左へ転線しながら出発。岩槻北口、河合、馬込と、武州鉄道の第1期区間を通過する。開業当初は単行が数往復するだけの非電化単線だったが、今ではすっかり複線の通勤路線と化した。

右に急カーブを描き、左手に宇都宮線を迎え入れると、2面4線の蓮田に到着。JRから連続するように4番線から7番線まで割り振られており、右側の5番線にはここで追い抜く大宮からの各駅停車が乗客を吐き出している。関東の私鉄では珍しい転換クロスシート車であり、夕方まで4両でローカル区間の務めを果たした後、8両に増結して新宿三丁目発の「おうぶライナー」に充当される。蓮田は輸送量が段落ちする運行拠点であり、半数ほどの降車がみられたが、各駅停車からの乗り換えも一定数あった。

15時49分、蓮田を発車。しばらくはJRの複線と並走し、お揃いの橋梁で元荒川を渡る。多少間が開き始めたところで黒浜を通過。すぐ左手には両線の間に蓮田市役所が立地する。間隔を稼いでから宇都宮線をオーバーパスすると、今度はJRの線路を右手に見ながらべったり横につき、白岡に到着。蓮田とは逆に、王武に1・2番線、JRに3番線から5番線が与えられている。

白岡市は2012年に単独市制を果たしたが、白岡駅より先はのどかな田園風景と形容されるべき住宅の少ない区間に変貌する。2面3線ではあるが待避線が使われていない篠津を過ぎると、久喜白岡ジャンクションにほど近い工業団地をかすめながら、除堀、三箇と通過する。駅からの徒歩通勤が可能な距離であり、シャトルバスも運行されているが、自家用車が優勢なのが実状だという。

田園風景に住宅が増え、わずかにマンションが見えてくると、菖蒲町に到着する。駅舎に隣接する1番線と、跨線橋で結ばれた島式ホームからなる典型的な国鉄式配線の駅だが、日中はもっぱら島式ホームしか使われない点が私鉄らしい。

左に見沼代用水に沿った中規模の検車区を眺めつつ、水田に工場がちらほら建つ車窓が続いて騎西町に連続停車。こちらも2面3線だが、3番線は折り返し専用と変わった配線をしている。1・2番線を埋める形で上りの快速急行と並び、16時4分に発車。はるばる横浜から都会を貫いてきた電車はとうとう単線区間に突入する。

先ほど快速急行と離合したことで優等列車同士の行き違いが起こらないように工夫されており、ポイントで減速こそするものの運転停車もなくスムーズに田ヶ谷、広田と通過。広田は鴻巣市に合併された川里村の中心駅だが、快速急行が停まるほどの集積はみられない。

埼玉を過ぎると、左右に不自然な小高い丘が見えだす。ワカタケル大王の鉄剣で知られる埼玉古墳群である。敷設時には古墳が群をなしていることが知られておらず、結果として近鉄奈良線の平城京のように史跡の中央を貫く形となったといい、公園として再整備された古墳群の中を突っ切る姿は王武電鉄のカレンダーにもよく登場する。観光誘致のため新駅設置が要請されているが、関係省庁との折り合いがついていないほか、単線区間の余裕のないネットダイヤが崩れるため実現には至っていない。

忍川を渡るといよいよ行田の市街地。ブレーキとともに到着のアナウンスが流れ出し、単線を3つに分けるポイントをカタカタと通過すると、16時12分、小さくまとまった頭端式ホームの王武行田に定刻通り到着する。3基しかない改札機の先に、懐かしいシルバーのワゴンを見つけた。

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