沿革

王子電気軌道の難産と電燈電力事業の隆盛

日露戦争後の工業の発展は著しく、工場が立地した東京近郊では新たな交通機関の開業が渇望されていた。こうした需要と戦争直後の財界の好況に後押しされ、1906年に入ると東京市や北豊島郡在住の実業家ら30人が発起人となり王子電気軌道が設立された。王子を中心に大塚・三ノ輪・岩淵の三方に裾を広げる電気軌道の特許は翌年5月に交付され、鉄路への期待が寄せられていた。

しかしながら、周知の通り好況の時代は長続きせず、その反動として日本は明治四十年恐慌を迎えることになる。財界の人物が集結した王子電気軌道は大いに煽りを食い、外資や財閥に支援を訴えるも快い返事は得られなかった。自力で株式を発行するも買い手がつかず、軌道開業は頓挫しかけていた。

そのような状況下で王電を窮地から救ったのは、各地で電鉄に出資し「電気王」と称された才賀藤吉であった。才賀は王子電気軌道の株式を引き受けた上で、初代社長として指揮を執った。こうした紆余曲折の末、設立から5年を迎えた1911年8月20日、大塚線大塚~飛鳥山(現在は廃止。滝野川~王子間に所在)間2454メートルの開通をもって王武電鉄は幕を開けた。市電との直通運転を見据え、1372ミリの馬車軌で敷設された。

大塚線の開通後、王子電気軌道は1913年に飛鳥山下~三ノ輪間を開通させるが、この原資となったのが電燈電力事業である。軌道・計画線沿線に加え埼玉県川口も送電区域とし、1911年に供給を開始した。徳富蘆花が「東京が日々攻め寄せる」と評したこの時代、府内の供給区域の宅地化は著しく、王子や川口には工場が数多く立地することも手助けし、開始早々利益を上げ始めた。川口での電力供給が有卦に入った王子電気軌道は、埼玉をフロンティアとして捉え始める。

岩槻をめぐる鉄道計画

2万石の城下町・岩槻は、古くから江戸・東京と日光御成道で結ばれ、往来が盛んだった。黎明期に青森を目指した日本鉄道が経由地として候補に挙げたが、実際は浦和・大宮・蓮田と辿るルートを取り、岩槻に汽車は訪れなかった。鉄道の有用性が周知され、街の衰退が危惧され始めると、商人や政治家といった有力者の多い岩槻では鉄道を敷設する運動が巻き起こるようになる。路線計画には相違がみられ、政界を中心とした一派は東京へ直結する鉄道を、また財界から成る一派は既存の鉄道の駅へのアクセス路線を構想した。

1910年8月に軽便鉄道法が施行され、私設鉄道の設立が容易になると、前者は蓮田の政治家と共鳴し、同年11月に中央軽便電気鉄道を設立した。川口から宮ヶ谷塔(のちに岩槻に変更)までの免許を取得し、東京から日光までを結ぶ長大な路線を夢見たが、動力を蒸気に変更したり、資金繰りに難が生じるなど、経営は混迷を極めた。なお、動力の変更に伴い、1911年に中央鉄道に改称している。

結局、後述する電気軌道に対し競争力を持たせるため、自力で東京まで開通させる前に東北線の蓮田まで敷設する戦略を選んだ。岩槻と蓮田は6キロ程度で、起伏のなだらかな台地上を通るため、早期に開通させ東京延伸の資金獲得を狙ったのだろう。電気軌道と競うように1912年に免許を出願し交付されると、川口への免許を差し置いて敷設に勤しみ、1914年に岩槻~蓮田間を開通させた。非電化単線の粗末な軌道からも、開業を急ぐ戦術が窺える。

一方、後者の案は、東京に出る駅が立地する大宮(1885年開業)と粕壁(1899年開業)を岩槻経由で結ぶ計画であり、前者より現実味を帯びていた。しかしながら、中央鉄道の難航を目の当たりにし、先行きが見えない状況での会社設立と免許申請は躊躇われていた。そんな中、南に目を向けると、電力事業という副業によって地盤を固める電鉄会社が成功を収めていた。こうしたモデルに目を付け、王子電気軌道の才賀に経営を依頼する。

才賀の指導を仰ぎ、1912年に岩槻電気軌道の免許が出願されたが、資金繰りに詰まった才賀電機商会は同年に破綻まで追い込まれてしまった。才賀が去った後も電燈事業を実現したい岩槻電気軌道と、埼玉県下での事業を拡大したい王子電気軌道の思惑が一致し、特許が下付された1913年に王電が岩槻電気軌道を買収した。

王子電気軌道の利益を原資に、電燈電力網の整備と電気軌道の敷設は並行して進められた。1915年に岩槻に電気を灯すと、1918年に大宮~岩槻間が、1920年に岩槻~粕壁間が開通し、岩槻から東北線・東武線へのアクセスが実現した。軌道法に基づいてはいるがほとんどが専用軌道で、各線との直通を意識し狭軌で敷設された。

中央鉄道の北上と武州鉄道の成立

中央鉄道の至上命題は東京への延伸だったが、岩槻から南進しても東京に辿り着くまで長い年月と費用を要する上、その間の収入が安定しないのは明白だった。そのため、東北線と連絡する蓮田から北上し、北埼一帯の貨物や旅客を輸送する計画を掲げ、南下の資金を得ようと試みた。

繊維工業で栄えた忍町行田を目的地とし、1915年に蓮田~行田間の免許が下りたが、東北線のオーバーパスが多額の工費を要することや、東北線と菖蒲・騎西・行田の各町を最短距離で結ぶ狙いから起点を白岡に変更し、1917年に白岡~騎西(現・騎西町)間、1919年に騎西~行田(現・王武行田)間を開通させた。なお、このときに沿線一帯の旧国名を取って「武州鉄道」に社名を改めている。行田では吹上に至る行田馬車鉄道に接続する形で市街地南端に駅を構えたが、武州鉄道や1921年開業の北武鉄道(羽生~行田間、1922年秩父鉄道に吸収)に乗客を取られた馬車鉄道は、1923年に廃線となった。

しかしながら、1922年の熊谷延伸で省線接続を果たした秩父鉄道との競争によって収入は思うように得られず、岩槻電気軌道の影響で岩槻方の乗客も減少したため、経営は常に黄信号だった。東北線を境に2分割された31.4キロの鉄路の維持に精一杯であり、東京進出など夢のまた夢のように思われた。

王武電気鉄道の誕生

1913年に岩槻電気軌道を買収した王電であったが、1914年時点で全収入の6割を副業のはずの電燈電力事業が占めており、本業の軌道輸送は経営上の足枷となっていた。延伸開通も1915年の飛鳥山~王子間を最後に停滞し、さながら電力会社のような様相を呈していた。実際、1914年の電灯数では「三電」と称された東京市電気局・東京電燈・日本電燈の大手三社局に次ぐ4位を誇っており、競争にさらされながらも利益を獲得していたようである。

官民入り乱れた東京の電力競争は以後も激化し、熾烈な値下げ合戦により各社が利益減にあえぐと、大手三社局は1917年に「三電協定」を締結し、売電価格を固定した。王電も適正価格に回復するなど恩恵は受けたが、カルテルを形成した三社局の規模に追随しきれず、城北では東京電燈に押され気味となった。

一方、埼玉県下での電力供給はほぼ独占状態にあり、王電にとっての大きな利益源であった。1920年に東京電燈が日本電燈を吸収し勢力を強めると、府下での電力事業に行き詰まりを覚え、長らく不調に甘んじていた軌道事業にテコ入れを図ることになる。

目下の私鉄ブームにも刺激され、飛び地路線であった旧岩槻電気軌道区間と王子との連絡線敷設を目標に据えた王子電気軌道は、岩槻から南下する鉄道免許を目当てとしつつ、軌道でも十分輸送が可能な軽量の繊維製品輸送を副産物としてにらみ、自転車操業の最中にあった武州鉄道と合併を果たした。1923年5月、両社の頭文字を取った「王武電気鉄道」の誕生である。

合併をめぐる諸問題と関東大震災

合併を果たした両社であったが、王子と岩槻を結ぶ直通路線の敷設には2つの壁があった。

第一に、両府県を隔てる荒川が大きく立ちはだかった。当時赤羽と川口の間には省線の鉄橋こそ架かっていたが、徒歩では船をつないだ粗末な橋しか利用できず、一私鉄が簡単に架橋できるスケールではなかった。大正年間の荒川放水路の開削工事の進展により川幅は800メートルに拡大しており、当面は自力での開通が困難と見込まれたことから自社運営の渡船連絡が計画された。

さらに解決しなければならなかったのは軌間の問題である。東京府内は市電との直通を企図した1372ミリの馬車軌で敷設されたのに対し、旧岩槻電気軌道と武州鉄道から成る埼玉県内の区間は地方鉄道のスタンダードである1067ミリの狭軌であり、一方が改軌しなければ直通は不可能であった。

既開業区間は県下の方が長く、改軌のコストだけを鑑みれば府内区間を狭軌に改める方が合理的ではあったが、社内での発言力があった旧王電サイドは市電直通を捨てきれず、王子~赤羽間の併用軌道の道路敷設について馬車軌で交渉がまとまっていたこともあり、決め手に欠けた状態で川口~岩槻間の路盤工事に着手した。

改軌論争にピリオドを打ったのは、皮肉にも合併間もない1923年9月に発生した関東大震災であった。王武電気鉄道の府内区間では、ほぼ全線が台地上に位置する大塚~王子間は比較的軽微な損傷にとどまったが、荒川(現・隅田川)に沿う飛鳥山下~三ノ輪間は地盤が緩く、大きな被害を受けている。復旧作業と並行して改軌を実施する方針で社内の意見が合致し、ゲージを1067ミリに狭めた上で9月中に全線で営業を再開した。


(以下、調査中)

参考文献

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